逃げ砂糖水

睦子が文庫本を繰る音が清潔に響く部屋にて、私はといえばペディキュアが乾かないので暇だった。動くとすぐに傷をつけてしまうため、爪先まで細心の注意を払ったまま体育座りをするほかない。表紙を覗こうと彼女の手元に目線を向けたけれど、長い指で覆われていて何も読み取れなかった。


「何してるの」
「夏」
「動詞で答えてよお」
「読書」
「名詞では」
「さあ」


本を閉じる音がして、彼女の足裏が畳を滑るざらついた音が続いた。

八月に生まれたたくさんの光たちは私からも彼女からも遠く離れている気がする。そのくせ、汚れに布を当てて叩き出す染みのように憧憬を確実に浮かび上がらせてくる。
目を閉じるといつでも海が見えるの、睦子が嘯いた。彼女の瞼の裏に飛び回っているのは無数の星と波形であることを知っている、でもそれを加工して海だってなんだって作れるのだろう。それを錬金術と呼ぼうとして、でも照れくさくてやめてしまう。


「ね、何か聴かせてよ」
「何もないわよ」


正方形の講堂があるならそこで大きい音を出してみたい、時差を帯びたひどい反響音で全身を貫かれて銃撃戦のあとみたいにふたりで死ねたらきっと楽しいね。身勝手に思っていることをちゃんと自覚している、彼女なら一蹴するだろうって知っている。
でもこの部屋ならもっと丸くてちゃんと身体に優しい音で聴けるだろうから、ねえ何か聴かせてよ。そこにラジオがあるって知ってるよ、アンテナ伸ばしてよ、いま動けないから取ってよ。
今日も低血圧で怠そうな睦子は眉を顰める、でもそこにさしたる感情はなくてただの癖。押入れの上段に腰かけているラジカセを足元に降ろしてくれて、少し考える素振りをする。


「充分うるさくないですか」
「ああ、虫とか」
「それもだし、他にもいろいろ」


彼女には何が聴こえているというのでしょうね。温められた土が体積を歪める音、逃げ場を失ったみみずの身体から水分が抜ける音、流星がトタン屋根にぶつかる音、夜半の草木が呼吸する音、ペディキュアの端が剥がれる音。その他些細なものに至るまで、総ての現象を睦子は感知し切り分けて捉えることができるのだと、疑問をさしはさむ余地もなく事実として受け入れていた。なぜだろうか、当然のように。あるいはこれは、彼女には総ての現象を感知していて欲しいという願いなのかもしれない。
最高感度のアンテナで受信し続けて、溜め込んだら一気に反転して放出する。不健康にしか見えない彼女から放たれるエネルギーの圧は何よりも強く、誰もを均等に潰してゆく。いつも隣で見てきた景色。彼女が口を開くたびに世界の綻びは可視化されて、もはや彼女が綻びを作っているとさえ感じられた。

その口に差し込むためにと持参した水色のアイスキャンディーは、二三口齧ったところで気を惹く力を失ったようで、コップに突っ込まれたまま放置されたためにすっかり砂糖水となっている。
透明な水を飲もうとしたのだろう睦子は、そのグラスを取りかけてやめた。カロリー摂りなよ、いつか死んでしまうよ、まあ私もいつか死んでしまうけれど。どうせなら同じ講堂で殉職しようよ。私たちには時間しかなく、時間は有限だ。従って何もないと言い換えてもいいのかもしれなくて、彼女から放たれたものが身体中に突き刺さって死ぬのは若い自分には似合いの仕舞いかたに思えた。

グラスを通り過ぎた手先はそのままラジカセへと着地して、ボタンを押し込む音がした。かちゃん、カセットの回る音。睦子が立ち上がる。
流れ出さない音楽と、ああ何も録音されていないのか。ざらざらした時間に混ざる気泡のようなぷちぷちしたノイズ。


ソーダ水になればいいのにね」


砂糖水をシンクに流しながら彼女は言う。半渇きのペディキュアにノイズが積もって細かい傷がついていた。錬金術で練り直されたい骨たちが軋む音が身体に響く。部屋いっぱいのソーダに溺れたいな。ケミカルチェリーの心を抱いて、私は排水溝に引っかかる。