マーブルブルーム

 

美しいほうの夢に触れられている。夢の前では肉体は些細なこと、衣服はもっと微々たること。それでも美しいほうの夢にも肉体があって、伸びてきたその腕が私の胸板を撫でるように滑った。肩や鎖骨といった硬いものを避けて乳房に触れる。当然のこと、皮膜が破れてしまっては危ないから。美しいほうの夢は周到に危険を避けるため、神経を澄ませているようだった。誰にも自分を守らせないための仕草なのかもしれない。他人に触れられたら濁るというのは美しさの性質のひとつで、だから自ら触れにゆく。美しさを守ろうとして迂闊に触れては破壊して、凡庸なかたちに落とす罪人たち。あの群れに混ざりたくなくて自分の手を握っていた。触れないために、触れられるために。


あなたに触れると肌が解けて血が混ざるような気がした。汚いものがたくさん混ざった血。その綺麗な血とざらざら交換して濃度の差が少し埋まる、息がしやすくなる。同じ分だけあなたの高潔さにも不純なものが混ざって、やっぱり息がしやすくなるはずだ。そう、そんな隅にいる必要はなくて、誰かに野次を飛ばされても汚物を吐きかけられても堂々と中心を歩けばいい。汚れようとも落ちぶれることはないことを私は知っている。高潔であること。そうだね、理想、理想は素晴らしいでも理想でしかない。道を歩きやすく均すよりもどんな道でも背骨を伸ばすように調節するほうが簡単だよ。あなたにそれを伝えたくって血を混ぜる。そのために少しでも肌が薄いところがよくて。


美しいほうの夢が必ずしも明るい夢とは限らない。哀しくてやりきれない、地獄のような怒り、この世ならざるおぞましいものの宴の夜。明るい感情を微塵も持てない中、それでも美しいと感じる器官を持っている。どんな内容にせ美しい、美しさ以外の指標ではうまく計測ができない。自分の指先を握り続ける私の指先に触れてくる、触れ返してこないかを確かめているように感じられた。ゆっくり指先をほぐされて、手のひらまで深く触れられてしまうのは時間の問題だった。呼吸が伝う、上下する気配。静謐で獰猛。もっと下品な言葉もよく似合う。美しさは内包するたくさんのものたちで白濁していた、それでも純度が高いのだ。まだもっとたくさん飲めるよと言う。
驟雨のなかパーカーを被って手ぶらで出かけた日、思いがけずたくさん水を飲んだパーカーは色を深く鮮やかにしていて美しいと思った。その晩私は風邪を引いた。


あなたの見ている夢を肌が吸い上げる、触れた端から伝って流れてくるよ。それがまたこの血になってあなたの夢に少し近くなる。尽きることのない夢だ、何度も触れてきたけれどまだ新鮮に豊かで、これは尽きないものだってぴんときた。そんなにあるなら少し分けて欲しくって、レートもわからないまま交換し続けている。つまり自分も何かを渡しているはずなのにそれが何かはわからない。あなたの肌の内側で起きていることをまるで想像できない、あなたみたいに澄まして生きてこなかった血だから。あなたはみんなと高さの違う足場、一段高いのか低いのか、とにかくただ他の誰とも違うところにいて、そこから目線を寄越してくる。真新しい新雪にはしゃいで飛び出したりせず佇み続けている。真新しい雪を踏みたくて転々とした私の足元はただ酷くぬかるんで悪い春。
気圧線の隙間に挟まっていた薄い肩を見つけた雪の日、最初は小雨だったのにと呟くあなたは鼻声だった。一晩で世界の色が変わると窓の外とあなたが教えた。


私の頬を撫でながら、顔にほくろがあるんだねと美しいほうの夢が鳴った。左の泣きぼくろを指でつつく。ねえ知ってる、写真撮るときって左顔を向けたほうが写りがいいらしいよ。
知っていた、知っていてこうした。ピアスも左側に寄せた、これでようやく左右のバランスが取れるはずなのだ。


ああ、これ。あなたの目線の先にあったのは私の左胸のほくろだった。さっき頬をつついた手を少しずらして、次は胸元のほくろに触れた。お揃いみたいだよね、同じ位置にあるし。もっと言うならこれ以外に私たちの接点はないように思えた。

「お揃いだって感じはしない、同じものって感じがする」
「シェアってこと?」

美しいほうの夢の身体に空いた黒い点に根が生えていて、それを辿ると私のほくろと繋がっている様子を思った。うん、同じものという感じがする。美しいほうの夢はたまたま美しいほうの夢で、それが私でも別によかった。

「なんか前世や魂がどう言われてるんだって」
「前世で何だったかによるよね」
「他人の可能性もあるしね」

今もだよ、と言いかけて飲み込んだ。あなたは他人でなくてはいけなかった、そうでないと何も交換できない。本当に同じ人間になってしまったら、倍に膨れた血の袋を肉に詰めて路頭に暮れてしまうだろう。そのうちに巡りが悪くなって腐って終わる。

「つまりあなたが他人だった場合とそうでなかった場合があるんだ」
「いまはどっちだろうね」

聞いてから別に興味がないことに気づいた。このほくろを深く伝ってゆけば同じ根に辿り着くことを確信していたから、この問いも肉体同様に些細なことだ。ひとつの根が割れて、美しいほうの夢と私がある。美しいほうの夢は私ではない、私ではないほうの美しい夢。そんなふうに考えをぱちんぱちんと転がして遊んでいた。ひたすら大きい世界で呼吸がままならない、酸素が足りないから曖昧なことを考える。

「どっちでもいいよね」

あなたは目眩を起こしているようだった。深い眼をして潜ってゆくことで頭を固定しているみたいに見えた。あなたのほくろが最近できたものならいいのに、と思う。前世も魂も関係ない、今を生きる私が今を生きるあなたに蒔いた種。血を混ぜているのだからそれくらいの情報がこっそり書き写されていても不思議はないのに。

「同じものがあるってことに変わりはないしね」

自分で言ってくらくらする。根を同じくするこの黒い芽が左胸で芽吹いているのが今なら、未来ではもっと育って違う何かになるだろうか。例えば、花は咲くだろうか。美しいほうの夢に咲く花と私の花はどう違うのだろう、それとも同じ花になるのか。どちらにせ咽せ返る香りのする話だ。いつかこうなるように、既に種は撒かれていた。このおぞましさは、きちんと美しい?

「大袈裟な話すぎて、なんかよくわからないや」

あなたの胸に触れ続けている手のひらには脈打つ感覚が伝わってきていて、さっきよりも早い気がする。果てしないものの前にひとは無力だから小さい話にまとめて片付けようとしたらそんな言葉が出た。
もう遅いよと俯いたあなたが言う、「そんな風に看過できないよ」。
あ、目線が同じ高さになった。
新雪を踏むようにゆっくりと同じ足場に乗り移ってきたあなたは、背筋の傾斜を整えながらようやくこっちを向く。あんなにずっと高潔でいたのに黒い交点ひとつで血の行き交う量が途端に増えてしまって、汚いものを含んだ血があなたの脳の深くまで到達したのかもしれない。ということは同じだけこちらにも流れ込んできているはずで、ねえ、もっと交換して遊ぼうよ。いまおもってるこというね、

「もう他人でいられないかもね」

突風。美しいほうの夢の言葉を真っ向から飲まされたのを、どうにか嚥下して頷く。違う色のリップが混ざって唇でむらになっていて、私たちが可視化されたようだった。そして、これからもっとむらになる。

 

 

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あるイラストに寄せて。