スウィング

別にどうってことないの、ののこちゃんはブランコを蹴る。僕はピアノを弾き続ける。左手がひっきりなしに2オクターブ違いの音を乱打する曲だったが、僕の親指と小指は正確に位置を捉え続けた。


「ロマン派がいい」
「ののこちゃんはそればかり」
「きりくんが訳のわからないものばかり打鍵するから」
「まったく訳がわからない曲ばかりだ」
「たまには間違えなよ」
「確かに」


僕はののこちゃんの方を見る。右手は単調なメロディを繰り返し続けるように調節して、左手にはもう意識を払わない。さあ飛びまわれ。その低音をどうにか打ち続けて、不格好な不協和音を鳴らしたらおしまいにしよう。


「よそ見をしてもいいかな」
「してるじゃない」
「部屋って狭いね」
「見尽くすまでには結構あると思うけど」
「例えば?」
「ブランコの金具とか」
「ブランコの金具」
「高い天井とか」
「高い天井」


この梁で首を吊ったご先祖様もいたらしいよ、と思い出したことを僕は口にする。ふうん、とののこちゃんは相槌を打った。金具は手入れしたばかりなのだろう、軋むことなく滑らかにスウィングし続ける。

もっと肩を揺らして弾いたほうがいい。
スウィング、スウィング、軽やかに揺れてリズムリズムに乗ってどこまでもゆく、刻んでゆく。その心地よい程度の振れ幅は、機械に打ち込むよりも弾けるひとが弾いて演奏したほうが早いんだろうなって僕は昔から思っていた。肩を使う、しなやかに跳ねる。そして親指と人差し指でまた、正しい音を、捉える。まだ、正しい音を、捉え続けている。


「ののこちゃん」
「なあに」
「ブランコって、楽しい?」
「楽しいわよ」
「僕の左手と似てるなって、思っただけ」
「きりくん」
「なあに」
「ピアノって、楽しい?」
「よくわからないけど、気持ちいい」


それはいいね、と彼女はからから笑いながら、楽しいけど気持ちのよくないことをいくつか教えてくれる。蝉の羽をもぎ続けること、熱湯のなかで長く潜ること、首を絞めて酸素の供給を止めること、それに近しいいくつかのこと。


「あと、仕分けしづらいのがひとつあって」
「うん」
「誰かが首を吊ったブランコで遊ぶこと」
「ああ、遺言だったんだって」


左手が飛び回る。早く間違えろ、と僕は思い出す。右手は決められたメロディに飽きてしまって、何か適当に爪弾いてる。


「愉快なひとだったのでしょうね」
「もしくはジョークが好きか、どちらかだ」
「じゃあ楽しいことでいいのね」
「ののこちゃんって単純だなあ」
「誰かの左手みたいに?」
「ちょっとしたゲームをしているんだよ」


流星みたいに素早く動いても、それはちっとも光らない。綺麗に消えてゆかずに反復をし続ける。慰めるような高音が単調な作業を間違わない僕を慰めてくれた。僕は鍵盤から目を逸らし続ける。目の前の僕の正しさを、僕は、認めたくないと思った。


「きりくん、目を瞑って」
「どうして」
「そろそろ見尽くしたかなって思ったから」
「そんな気もする」
「見えるもの、まだあるかもよ」
「ないよ」
「私には見えるよ」


ひゅっと風を切ってののこちゃんのブランコは揺れる、スウィングする。僕の肩よりずっと軽やかに。目を閉じて三半規管がおかしくならないのか、それとも目を閉じたほうがましなんだろうか。
目を閉じる。
左手は行き来し、右手は申し訳程度に何かを演奏し、風を切る音がし、暗闇によぎるものを待つ。


「きりくんには見えないかしら」
「音がする、ブランコの音」
「それは聞こえないけど、私には流れ星が見えるよ」
「流れ星は行き来しない」
「行き来するものなんてひとつもないもの」
「まさか」


これが行き来じゃないのなら、反復運動ではないというのなら、僕はなぜ正しく鍵盤を打ち続けることができるというのだろう。


「ブランコは少しずつ違う位置で落下し始めるし、音はどこかへ消えてゆく」
「消えた分をまた弾いている」
「上塗りは、じゃあ違うものだよ」
「それなら僕らはいま何をしているっていうの」
「反復でない以上、ゆっくり落ちるかゆっくり上がるか、でしょうね」


真っ暗な視界いっぱいに低音が広がる、それは紺色の濃淡を伴って見えた。寄せては返す紺色の嵐がすぎるのを待つ右手の、ささやかな高音。


「きりくんのピアノは安心する」
「ロマン派じゃなくても」
「それ、ジャズじゃないの」
「まさか」
「教えてあげるそれはジャズっていうのよ」
「でたらめだ」
「きりくんは、自分で、ジャズを発明した」
「大袈裟だ」
「だってこんなに流れ星が見える」


きりくんは気づいていないだけ、とののこちゃんの声が近づいて遠ざかって。
同じ音を弾き続けているわけじゃないのよ、あなたの指は瞬間瞬間、その音を選び続けている。しかも正しく選び抜いた鍵盤に触れる力がある。それってとっても豊かなことだよ。

本当にそうだろうか、と思った。
僕は自分の意志で、この厄介な低音を弾き続けている。確かに、それは確かにそうだけれど。間違えてくれることを望んでいる、こんなに望みながら、僕は間違えずにいる。


「きりくん、もっと揺れて」


スウィング、スウィング。きらめいている、あとは艶だけ。スウィングして、もっと揺れて、揺らして。選び続けて、選び抜き続けて、左手もだし右手もだよ。でたらめで大袈裟でいいから、もっと揺らしてみせてよ。

僕は深呼吸をする。右手に大ジャンプをさせようと思って、正しく着地できるかを考え、考えなかった。肩の揺れに任せて飛ばしたらきちんと小指は欲しかった音を掴んだ。そのまま下ってゆく。五本の指が踊り始めて、それを支えるのは単調な左手で、きちんと選んで触れ続ける。


「あ」
「どうしたの」
「いまから鳴るよ」
「なにが」


不協和音が。

目を見開く。
左手は叩きたかった鍵の隣を勢い良く弾いた。数分間繰り返し続けた運動が終わって、そういえばくたびれた左手を残して右手が音階を下りきってゆく。


「わかるものなんだね」
「違うって思ったから」
「それは、選んだのじゃなくて」
「どうだか」
「疲れたんでしょう」
「飽きちゃったのかも」


即興演奏にも満たないただのゲームが終わる。不協和音を伴って。


「ゆっくり落ちるのと上がるのと、どっちがいいのかな」
「どうせなら落ちてみれば」
「どうして」
「だって落ちたら上がるだけだし」
「ねえそれ、ブランコの話でしょ」
「バレちゃった」


ののこちゃんは床に着地する。空気中に溶けた不協和音を散らしているみたいだと思った。

もう一度目を閉じてみると、瞼の裏に何か焼きついたものが線状の痕が残っていて、僕にも流れ星が見えていたことにようやく気づいた。

また、ジャズを聴かせてね。
口約束を交わして僕らはティーカップに口をつける。