青成り

繰り返す夏にどんな意味があるのかと問われたところで、私は困るばかりなので、質問の意図を問いなおす。質問で返されてたじろいでいる葉子が滑稽だった。


「睦子は暑さに弱い」
「ああ、滅びればいいと思います」
「でも夏は好きなんでしょ」


なつ、ナツ、夏。声に出してみる。その響きを舌で転がすと飴玉をなめているような気分になった。
葉子は少し首をひねって、よくわからないなあと呟く。わからないと言われても、自分でもどうしてこうなのか説明できないのだった。


「暑さに弱いのに、夏が好き、ねえ」
「葉子さんは急所……そうですね、こめかみ。こめかみを突かれたら脳震盪を起こす可能性が高い、つまり弱点です。さて、ではこめかみを嫌いますか」
「いや」
「同じことですよ」
「わからないですよ」
「わかってくださいよ」
「弱点だから嫌いとは限らないって言いたいんでしょ」
「理解しているじゃないの」
「慣れた」


私が丁寧に説明したからだ、と言い放っても良かった。でも、別に言わなくてもよかった。

光化学スモッグ注意報の警報が鳴っている。
葉子はそれを気に留めたこともなかったというが、私はあれで具合が悪くなったことがあるから過敏になっているらしく、この耳は注意報をきちんと捕らえた。
ガラスを一枚隔てたあちらの景色が向こう見渡す限りきらきらきらきらむやみに反射している。光化学スモッグの発生している世界。その仕組みを化学の授業は教えてくれない。

積乱雲と入道雲が同じものを指すことくらい、葉子だって知っている。空の高いところに発生する夏に特有の雲。
夏。夏。焦る。飛び出さなくちゃいけない、そんな気がしてくる。

夏よ、葉子。どこへ行こう。葉子は軽やかな生地で出来た夏服の腹の部分をそっと浮かせて、暑い暑いと言いながらパタパタと下敷きで風を送り込んでいた。


「睦子、今年はどこかへ行く?」
「涼しいところがいい」
「避暑地で高山病になるの誰だ」
「私ですけど」
「あ、あなたですけど」


私の兄は虚弱体質だった。光化学スモッグに弱いのはもちろん、三半規管がとにかく弱くて、気圧の変化に弱い上に音楽を長い間聴いていられないらしい。父は低俗なテレビ番組を酷く嫌っていたので滅多に電源を入れなかった。あの家は新聞を捲る音で満たされていた。

家を出て気づいたのは、新聞がないと家は酷く静かだということで、仕方がないので葉子を招き入れたら今度はうるさすぎた。特に自分の声が。
一度うるさく聞こえた声は、家を出てもやけに耳について、喋るのがほとほと嫌になってしまう。


夏の空は高いので、私たちの声だって遠いところに向かって抜けてゆくはずだと、信じていた。
あの青い青いところに吸われてゆくどうでもいい雑談を思う。くだらない冗談が青く染まってゆく想像をすると手を伸ばしたくなった、憧れてしまう。焦がれてしまう。夏、コンクリート、焦げつく私たち。
私、たち?葉子も一緒に?


「8月は葉月じゃないですか」
「9月は長月っていう、あれですか」
「あら、知ってた」
「古文でやったからね」
「葉子は、半分、葉月だね」


へ、と素っ頓狂な顔で聞き返す。葉っぱの月と書いて葉月だから、と解説をしようかどうか悩んでいる間に葉子は合点がいったらしく、ははあと誇らしげな顔を向けた。


「それはねえ、ふふ、そうだね」
「でも葉子は8月生まれじゃない」
「睦子だって1月生まれじゃない」
「ねえ、全部言える?」
「睦月、如月、弥生、皐月」
「卯月が抜けた」
「うん、4月がないなって思ったところだったんだよね」


8月を背負わされたような葉子と、1月を背負わされたような私と、翻るスカートと。注意報の解除はまだかしらん、じゃないと下校もままならない。でももうすぐ閉門時間が訪れる、夕方、涼しくなってくる時間のはずだ。


「ねえ葉子」
「なあに」
「夏のこと、あんまり好きじゃないんですよ」
「嘘を」
「じゃあ、葉子はこめかみのことを愛していますか、好きだと言えますか……や、これは詭弁に過ぎますね」
「おや、弱気だ」
「太陽が低い位置に来ると目に痛い」


そうだねえ、視線を窓の外に向けたまま、葉子はスクールバッグの中からペットボトルを取り出す。もう飲み干して空になっていることに気づいて、あら、という顔をした。

夏休みにまでわざわざ校舎に来たのは印刷機を自由に使えるからだった。逆に言うと他の理由はない。とっくにここを帰る準備ならできている。


「睦子、暑いね」
「夏」
「なつ」
「夏」
「死にそうな顔してていいよ」
「心外な」


でも、いいよ。葉子は微笑む。サディストかしら。


「もしかして、殺してみたいんですか」
「まさか」
「私も嫌です」
「殺されないでね」
「夏にですか」
「ああ、あああ、サイレンがうるさい」
「だからいつだってサイレンの音はしているって」
「夏になるとさあ、サイレンの音が」
「前も言ってたけど、それ、頭の病気ですか」


甘い非難を込めてじっとこちらを見る様子が愉快だ。
彼女は自分の頭をノックするようにとんとんと叩いた。


「こめかみのこと、やっぱり愛せないかも」
「こめかみは頭じゃない」
「ざっくりと頭部ってことで」
「まあ、そうですね」
「だから」
「でもこめかみが病巣だなんて聞いたことない」
「確かに」


夏の青さがにんげんの身体をばらしてゆく。ゆっくり解体して、そうだ、あの青色に染めてくれないだろうか。あの青に酷く憧れ、思い焦がれ、アスファルトに焦げつく、黒い、染みと、染み。

てん、と小さく音がした。


「ア、土砂降り」


アスファルトに、黒い染みがちらほらとできたと思ったら、もう、葉子が口にした頃にはざあざあ降りで。


「雨宿りしなくちゃ」
「ここ屋内ですよ」
「わかってるけど、帰るとき」
「すぐ止むわ、通り雨だもの」
「下校時間までに止むかな」
「止むわよ」
「じゃあ、きっと止むんだね」
「勘ですけどね」
「え、根拠ないやつだ」


青空が遠のいていっても、土砂降りも含めて、どうして夏はこうも青いか。

海を見に行きたいと声に出してみたら、そうだねえと返事があった。
今年の夏も一緒に過ごすのだろうか。どうして別々の個体と一緒に過ごすことがあるのか今でもわからないけれど、葉子は結構便利だし、葉子も別に嫌がっていないようだから、いいかなと思う。彼女は、なんだか、好ましい。


「下校時間までに雨が止まなかったら」
「お」
「何か賭けてもいいですよ」
「じゃあ」
「ただし帰り道の飲み物はなしで」
「けちー」


この賭けに負けたら、海の家でかき氷くらい奢ってもいいかなと、ふとそんな風に思ったのだ。
甘くて嘘くさいべとべとのシロップを葉子はきっと好いているだろうし、私もあれは嫌いではないので、ちょうどいい。


結局、閉門のチャイムが鳴る前に雨が止んだので、賭けは呆気なく私が勝った。
海に行く約束は宙に浮いたまま、私たちは帰路につく。口実にもならない雨は、アスファルトを真っ黒に染めただけだった。


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「黒い踊り場/白い団地 - http://d.hatena.ne.jp/aas28/20140709」と同じ女の子。