続・四畳半


彼女の上をいくつかの夏と何人かの男が通り過ぎて行って、季節は秋で、つまり春は終わって、だからこうして彼女は顔を覆ってうなだれているのだろう。
眼前に並ぶ10個の爪は粒が揃っていて、それはピアノの黒鍵を思い出させた。飲食店で働く彼女は爪を短く整えているのだが、鋭いその爪が引っ掻いてきたであろう男の背中を思う。

カップラーメンを啜り終えた20時頃、古い木製のドアがギィと開いてまず目に入ったのは爪、顔を覆う手の指だった。


「さくらはここに戻ってくると思ってた」


並んだ爪はするりと落ちて解ける。現れた目は疲れて怠そうで、お前どけよ玄関に突っ立ってんじゃねえ邪魔だよ、なんて乱暴なことを言う。


「夏は終わったのにね、ただいま」
「夏は終わったからね、おかえりなんて言ってやらない」


少し前の夏、この四畳半の畳の部屋で、私は彼女とふたり暮らしをしていた。
「ひとつの部屋でひと夏過ごして、ダメになりたい」、どちらともなく唱えた言葉にそれはもう忠実に。
さながら脱水症状を起こしたみたく、ただひたすらぐったりと過ごし続けたのは、冷房がなかったからだけではないだろう。


「あは、そこ茶色くなってる」
「見るたびにぞっとするよ、その血痕」
「つばきのジュースの染みだって布団に残ってるんでしょ」
「畳に血痕つけるよりマシ」


さくらは靴を脱いで、小綺麗なパンプスを汚い玄関に汚く放り投げた。そういえばついこの間まではずっとこんな感じだったことを思い出す。


「つばきはもう少し靴を買えばいいのに」
「うるさい」
「夏も冬も革のブーツって」
「節制です」
「薬代が掛かるから?」
「……」


思わず黙った私に、彼女はあからさまに嫌な顔をする。
彼女はどうやら私が眠るための薬を飲んで生活をするのが気に食わないらしく、一緒に暮らしていたときには何度も取り上げられた。
そして、「薬がないとダメなくせに喋んなクズ」「フラミンゴ握りしめて手首ズタズタなお前に言われたかねえよ」から始まる不毛な罵り合いを飽きるまでするのだから、どっちもどっちだ。


「薬、夏だからって言ってたじゃん」
「冬は日照時間が短くなるから」
「春は」
「出会いと別れと花粉があるから」
「バッカみたい」
「愚かな痴れ者ですので実家に帰らせて頂きます」


彼女に背を向けて押入れを開けて身体を捩じ込と、懐かしい!と声が飛ぶ。そうだ、つばきってそんな感じだった!無視をして内側から押し入れを閉じた。


「あ、冷蔵庫借りるね。ワイン買ってきたんだ、スパークリングのね、おいしいやつ」


冷蔵庫を開ける音を聞き流しながら、毛布を身体に巻き付けて枕を抱き締めて丸くなる。押入れのなかでのお決まりの姿勢だ。
でも夏には毛布なんてないはずだから、どうしていたっけ、下着1枚でタオルケットを抱いていたような気がする。もうよく覚えていないのだけれど。

押入れ越しにジッパーを下ろす音がして、まもなくしてノートパソコンの起動音とそれをタイプする規則正しい音がし始める。懐かしい!そうだ、さくらってそんな感じだった!
彼女のあの爪が、このカタカタという音を並べているのだという事実は、とてもしっくりくるものだった。
どうせTwitterにくだらないことでも書いているのだろう、蠢く爪が波打つのを想像しながらその音を辿った。

ト、ト、ト、正しい変換を探すスペースキー。タァンと叩きつけるエンターキー。
くぐもった生活音はたぷたぷの水の中みたいで、瞼がどんどん重たくなってくる。


「……さくー、」
「はいはい、どうしたつばき」


私は薬も飲まないまま、ひどく深い眠りに落ちてゆく。

それでも、どうせ真夜中過ぎには目が覚めてしまうだろう。そのときに彼女が起きていたら一緒にコンビニに行って少し食材なんかを買い足そう。
さくらがこんにゃくの炒めものを作る間に、私は秋の間放置されていた食器を念入りに洗う。彼女は潔癖症気味なのだ。
そして、きちんと冷えたスパークリングのワインで乾杯して、夏が終わってからのお互いの報告なんかをしよう。つまらないバイトだとか、くだらない男だとか、あとそれから冬の過ごし方だとか、そんな話を。


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ある方の書いた「四畳半」という夏の物語の続きを書かせて頂いたものです。