黒い踊り場/白い団地


突き抜ける青空に旋毛からまっすぐ射抜かれる思いでいると、一面に蝉の声が散らばっているように聴こえたがそれは気のせいだ。
まだ入道雲も立たない6月の末、出来損ないの夏が組み上がってゆくのを眺めていた。

階段の踊り場には大きな窓がついていて、たっぷりと日光を部屋に取り入れるのでひどく明るい。その陽射しの鋭さだとかから夏の近さを思う。
緑がかった黒い階段にぶつかった日光はてらりと反射して、そこだけ白く見えた。日陰の部分とのコントラストの差が強くて目が回る。
蛍光灯の明かりが微かに届いて、ちかちかするのが障るな、と思った。


夏が来るね、と踊り場の真ん中ででステップを踏むようにして振り返った葉子が適当な節を付けて歌う。
夏が来るね、とそれをぎりぎり陽の当たらないところから眺めていた。


「夏が来たら何をしよう」
「何もしないわ、作りさしのレースを編んで、洗濯をして、ボトルシップを組み立てて、たまに海を見にゆく」
「夏が来るのに」
「夏が来るからよ」


葉子が溜息をつく。夏が来るから、と溜息をつく。


「夏になるとさあ、サイレンの音がするじゃない」
「いつだってしているわ」
「学校だと気にならないんだけど、なんか」
光化学スモッグ警報だとか」
「ああ、気が滅入る」
「さっきも警報出ていたの、知ってる」
「知らなかった」
「ほら、そんなものなのよ」


日差しを背中にたっぷり受けた葉子のセーラー服の後ろ身頃は、きっとじりじりと汗を吸っているのだろう。白いセーラーブラウスで全部を隠して見せる彼女の器用さに私はいつも、器用だなあとまったくそのままのことを思う。器用だなあ。

葉子はなにかと上手く立ちまわるのが得意な人間だった。
別段これといって秀でているというわけではないのだけれど、がさつでずぼらで粗だらけなのだけれど、締切を破ったりして顰蹙を買うことこそあっても、大体のひとは葉子のことを好いていた。
どうして葉子が好かれるのか私にはわからないが、それは私が色々なものに無関心で無頓着だからかもしれない。実際、葉子のことは別に嫌いではなかった。関心があるかといえばよくわからない。


「ボトルシップ、完成したら見せてね」
「嫌よ、葉子壊すもの」
「壊さないよ」
「壊して、しかも見つからないように隠すもの」
「隠さないよ」


あはは、と笑う葉子の顔は逆光で見えないから、声だけが空回っているのかもしれなかった。彼女が笑っていようがどうでもいいけれど、でもやっぱり少し気になる。
彼女の影をとんとんと踏んで踊り場の中央まで進んだ。厚手の制服の紺は光を通さない、じんわりとした熱だけが肌に映った。


「睦子の洗濯って細かそう」
「普通よ、洗濯機のなかで回ってもらうだけ。洗剤を溶かした水を沢山注いで回ってもらう」
「普通だね」
「何を想像したの」
「歯ブラシと白いタオルで叩き出す、みたいな」
「なにそれ」
「知らないの」
「洗濯機の動かし方ぐらいしか知らないわよ」


出来損ないの入道雲もどきがこっちを見ている。葉子の背中を見ている。葉子の影に守れられて、私は脅かされることなく踊り場に立つ。
葉子があんまり面白くないことを言った気がしたけれど、あまりきちんと聞こえなかった。編みさしのレースの次の段をどう展開するかを考えていた。


「あ、またサイレンの音」


葉子の瞼が閉じる音がする。


「上手く聞こえない」
「睦子さん、嘘はやめてください」


大きな音がする。
サイレンがわうわうと鳴いているのは耳に痛いから聞かないようにしたかった。
そっとそばだてれば熱でアルミサッシが膨張する音が聞こえるのでそちらに集中したかった。


「プール開きっていつだっけ」
「うちの学校にプールなんてあったっけ」


夏が来るから屋上へゆこう、葉子が言う。
夏が来るのに屋上へゆくの、そう返した。


「誰よりも早く、真っ先に、夏をまぶそう」


手を叩いて提案するや否や、葉子は階段を駆け上がる。情報処理しきれなかった私の腕を引いて一段抜かしで昇ってゆく。手を引いてもらえるだけで随分と体力の消耗具合が違うなあと思った。
ゴム底の上履きがぎゅっとしなって音を立てる。摩擦係数は来週の物理の授業でやるので予習した。葉子はたぶん授業で指名されてべそを書くだろうから、そのときは笑ってやろう。


「葉子ォ」
「なあに」
「夏が来たらさあ、私たち、ひとりだね」
「何言ってるの、初めからひとりじゃない」
「ふん、つまらない」
「その辺きちんとわかってる女なんです」
「ナマイキヨーコさん」
「ヘンクツムツコさん」


あっかんべー、と言う葉子は掃除の時間に箒をギターに見立てて遊ぶ。ロックスターのふりをして遊ぶ。


「偏って屈折するって、出来損ないの万華鏡みたいでいいですね」
「出来損ないだけどいいの」
「人間じゃないから、いい」
「なるほど」


はたして屋上へのドアは鍵がかかっていた。誰かが出入りする隙間も見当たらなかったし、壊すほどでもなかった。
葉子はぜえぜえと肩で息をして、残念そうに溜息をつく。


「夏なのに」
「夏ですから」
「教務課のけち」
「学生課じゃないの」
「どっちでもいいけど」


引っ張られてきたからか彼女ほど辛くはなかった。とはいえ、普段運動をしない身には堪えないわけでもなかった。
疲弊の色を滲ませれば、ごめんね、と蚊の鳴くような声で。別にいいよと言う代わりにセーラーカラーを少し引っ張る。
疲れたでしょ、と蚊は続けた。どうでもいいよと言う代わりにセーラーカラーを思い切り引っ張る。


「っで!」
「放課後、団地の前で」
「え、何」
「なんでもない、ほら終礼間に合わないわ」


家に鞄を置いたら、着替える前にあの白い団地までゆこう。葉子には聞こえなかったみたいだし、夏だから、だからひとりでゆこう。
あそこは誰でも屋上へ入ることができるから、私はそこを駆け上るのだ。

そして、ひとりで、夏を、始める。