歩行、思考、邂逅


街を歩いていて不意に鼻腔に流れ込んできた空気の匂いが、何の匂いなのか思い出せなかった。消毒液の匂いのような気がするけれど、よく研ぎ澄ませてみれば珈琲の匂いのような気もする。
まあ、なんでもいいし、どうでもいいんだ。
とりあえずその冴えない路地をカメラに収めて続きを歩く。
好きでもないし、嫌いでもないんだ、全部。




なんとなく思いついて、数年ぶりに商店街の文具屋に入ってみた。小さい硝子のショウウィンドウ越しにおばあちゃんがまどろんでいる。mono消しなんかその気になったら簡単にくすねてしまえるだろう、そんなことしないけど。


「あれありますか、赤鉛筆と青鉛筆が一本になってるやつ」


家に帰ったら自動シャープナーで一気に削りきってしまおうかな、と考える。二色に積み重なるであろう削りかすに思いを馳せれば、なにかが密やかに爆ぜる予感。




街の片隅とか蔦の絡まった家の軒先とか、現実は意外なくらいシュルレアリスム、超現実の破片を内包して平然とたたずんでいる。これが現実だなんて、信じられないね。
現実はあまりに現実的過ぎるんだよ、そうやっていつか誰かが教えてくれたのはとても鮮明。




限界に喘いでいる仔猫を見た数十分後に、犬と間違うほど大きくまるまる太った猫に出会う。うん、本質的にはいちばん根本の部分で理不尽なんだね、こんなの。




誰もいなかったからブランコに腰掛けてみる。久し振りにこいでみたらブランコの上に立って軽く揺らしただけでくらくらに酔ってしまって、ああむしろ空は遠くなったんだな、と思った。
もう飛んでけないね、落ちる心配がないからその点は安心。
歳をとるということは背が伸びるということは、とてもとても、安全だ。




なんとなく吹いた口笛が、不意に君の口笛とよく似た音を奏でてどきっとした。
尖らせた唇の先から音が羽ばたいてゆく……なんて、唇の形も思い出せない癖にね。
それでも、もっちりとした唇が煙草を挟む瞬間の眩暈だけは確かに覚えている。